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海中、夜道、映画館|「リトル・マーメイド」と「眠れるミューズ」


リトル・マーメイド The Little Mermaid

2023|135分|配給:ディズニー|アメリカ

公開:2023年5月23日(米国)、6月9日(日本)

監督:ロブ・マーシャル|脚本:デヴィッド・マギー

出演:ハリー・ベイリー、ジョナ・ハウアー=キング、メリッサ・マッカーシー、ハビエル・バルデム、ジェイコブ・トレンブレイ

私は海底の底から海の外に目線を向けるポスターを見て、本サイトのためのひとつめの映画として「リトル・マーメイド」を選びました。海中の薄暗さやぼんやりした音の世界が描かれ、眠りのよい導入にもなりそうです。ですが、寝不足だったからか、上映前のCM中に眠ってしまったのです。映画の記憶は僅かしかないですが、夢を思い返せば、映画が落とした影を見ることができるかもしれません。


動かない身体

私は人通りの少ない夜道を散歩し、佇むことが好きです。夢はそんな散歩のシーン。新しいiphoneは、闇夜でも撮影でき重宝するのですが、暗いままで撮りたい時には、どうもうまくいきません。真っ暗に生い茂る雑草を撮影していたら、撮れた写真が思いのほか色彩を放ち、突如頭が回転し、倒れてしまいました。目の前には道路。夏場の夜でも熱を保ったアスファルトの凹凸が横顔に食い込んできます。頭を打ったのに痛みがないのは麻痺しており、感じていた熱は頭からの流血に変化していきます。体を動かそうにも言うことを聞かない、なんだか頭しか存在しないような感覚です(金縛りだったのかもしれません)。動こうと意識がもがいていると、今度は景色の方が回転し、ギラギラ輝く高解像度の星空が目の前に。星の近さに感動していると、夜空が不安なピンク色を帯びはじめ、巨大な七色の流星が現れます(映画「君の名は。」の流星のような)。恐怖心と喜びと痺れに襲われながら、この流星を何度か見たことがあるような記憶が湧いてきます。「いよいよ」と緊張感が高まっているところで記憶が途切れ、いつの間にか静かな夜道に戻っています。私はこれが夢であることを意識しはじめ、もう一度あのシーンを見たいと夢をコントロールしようとしますが、先ほどの身動きできずにもがいた感覚と似たように夢をコントロールできずに意識をもがかせ、目覚めるのでした。館内には歌声が響いています。この声に引き寄せられたようですが、眠るのに心地よい音楽だったようで、またすぐに眠ってしまいました。


夜道と映画館

夢を顧みて、映画館での睡眠に惹かれたのは、夜道で佇み瞑想することに近いからだと気づかされました。私は夜の青暗い空間の中で静かさや深さに加え、幻想的な色彩を時折感じ、妄想や瞑想に耽っています。映画館で眠ることはこの状況に似ているのです。そして睡眠の狭間に垣間見た青暗い海中に光が差し込む描写は、映画館と夜に抱いているイメージとシンクロしていたように感じます。リトル・マーメイドの広報イメージは人魚姫が暗い海中から差し込む光を見上げ、背景には空想したようなモノクロームの物語のイメージ、手前には実際に泳ぐ色鮮やかな魚たちが描かれています。映画や夢を象徴するような絵柄です。


映画泥棒と人魚

さらにこの夢を読み解いてみると、どうやら上映前に流れていたCM「映画泥棒」に影響を受けていることに気づきました。頭のみがカメラの映画泥棒を、頭のみがサイレンの映画警察が拘束し、映画の盗撮やダウンロードは犯罪と警告するCM。子供の頃から映画を見る度に流れるこの脅すようなCMが映画を台無しにする存在に感じていました。さらに著作権を自社のために捻じ曲げるディズニー社の映画の上映前であること、そして眠る行為も咎めらてるように感じ、嫌な気持ちが湧き上がってきます。気持ちを切り替え、下半身のみが魚の人魚と、この頭だけがカメラであることを連想させ、あれこれ考え始めてみました。映画を見ることは、目の前に広がる様々なアクションに感情移入しつつも身体を椅子に拘束し、目と脳のみを活発に活動させる営み。これは夢が目蓋の中で目を急速に動かし、脳内で様々なアクションを繰り出すも、身体への回路が遮断されている状態と似ています。映画も夢も頭だけのような状態なのです。そんな思考を巡らせながら眠ってしまい、そこで見た夢は、道に倒れ身動きできずに頭だけになってしまったような感覚でした。人間には息ができない海中を長時間泳ぎ、ましてや両足が人魚の形状で拘束されていることに身動きが困難なイメージを抱いていたことが、夢に影響を与えていたように思います。そして倒れてアスファルトに転がる頭部のイメージは、映画泥棒からの「頭だけ」の連想で思い浮かんでいたブランクーシの彫刻「眠れるミューズ」からやってきたようです。


人種差別と配役

私はマンボウなどの魚が頭部だけで泳いでいるように見える時があります。ブランクーシにそんな魚のイメージの作品があったのですが、タイトル「The Blond Negress」を読み、黒人女性の頭部であったことを知り驚かされます。現在では「Negress」は黒人女性を指す軽蔑的な単語として広く認識され、またこの頭部の唇の強調は当時の差別的な風刺画での強調も思い起こさせるようです。大理石のヴァージョンのタイトルは「White Negress」と目眩がするようなタイトルがついています。アフリカをはじめ非西洋文化にインスピレーションを求め制作していたブランクーシは、当時の多くのフランス在住者よりも人種差別の意識は少なかっただろうと想像できますが、現代から見るとアンビバレントな気持ちにもなることでしょう。


大理石とは異なり、ブロンズのヴァージョンは磨かれた黄金色の鏡面になっています。鑑賞者の顔がその頭部に映ることで、主体の移入を意図しているのかもしれません。人種などの固定的な立場を崩す意図と捉えるなら、主役にハリー・ベイリーが抜擢され、黒人のアリエル役を巡って賛否両論となったこの映画とも無関係ではないでしょう。ブランクーシのアフリカ彫刻への志向をみれば「眠れるミューズ」は、黒人女性のイメージのようにも思えてきます。ギリシャ神話のミューズを描いた絵画は全て白人女性ですが、この彫刻は初めての黒人のミューズ像なのかもしれません。身体は消え去り頭部だけの姿は、死した頭部ではなく、生命が眠る卵のような姿をしています。目が閉じられた頭部の内側には夢が収まっています。開封前のプレゼントボックスの期待や想像の膨らみを持続させ抽象化したような彫刻。それは映画を見る前、見終わる前の期待や想像の膨らみを収束させることなく、持続させる、映画鑑賞中の睡眠のような形と近いかもしれません。


映画の内と外

下半身がタコの魔女を悪役として登場させ、その社会から見た良き女性像と悪い女性像による対立を描くことは、王やら王子のマッチョな社会を温存させるような物語であることでしょう。また、タコを忌み嫌う西洋社会の傾向を、2023年になっても繰り返すなかで、どういった描写がされたのか。タコやヒトデなど多様な海の生物のカラフルなミュージカルを垣間見ましたが、そういった物語の面では、映画を見る前の期待や想像はあまり膨らむものではありませんでした。ただ物語の中ではなく、映画の外の現実世界との関係で差別の問題が大きく扱われることとなったこの映画のあり様に惹かれたようです。そういった意味で人魚のアリエルというよりは演じるハリー・ベイリーが海底から向ける視線の先にあるのは、海の外ではなく映画の外の世界と言えるかもしれません。そういった枠を超える声は、微睡むなかでも反響していた歌声により込められていた気がします。そして映画の枠の外を意識させ、鑑賞への没入を牽制する上では、映画泥棒のCMが功をなしたようです。



1 комментарий


Гость
06 мая

先日ブランクーシの展覧会を観てきました。アクリルケースにおさめられた《眠れるミューズ》がいくつも並ぶ様子は、複数の映画館で眠る複数の人々の夢の世界を連想させました。

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